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 カポエィラにはいたるところに歴史が存在します。ポルトガル人によるアフリカからブラジルへの奴隷貿易を切り離すことができません。世界の砂糖生産に合わせ、ブラジルを領土として新しい国づくりと生産力が求められました。16〜19世紀後半まで奴隷として連れてこられた推測で1000万人ものアフリカの人々は、過酷な労働と、残酷な人生を強いられます。

平均寿命の短かった奴隷とされたアフリカ人は、使い捨てのように次から次へと新しい土地へと運ばれて、使われました。何世紀にも渡りアフリカの影響を色濃く受け継ぐブラジルの文化と国民性はその歴史からきます。ブラジルの新しい土地で様々な部族との混ざり合いによりそれが形を変え、奴隷制、植民地支配からの自由を勝ち取る術としてカポエィラの魂は受け継がれていくのです。

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闘う黒人たち(1820-24年) / Negros lutando, Brasis: Augustus Earle

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カポエィラのホーダ(1835年) / Roda de Capoeira: Johann Moritz Rugendas

 1888年、ブラジルでは奴隷制が廃止されますが、1890年よりカポエィラは法律により禁止され、公の場で行うことは許されませんでした。それは、アフリカ系黒人の行う全ての踊り、音楽、宗教を禁ずるものでした。ようやく1930年代になり、メストレ ビンバによってバイーア地域の格闘技(ルタ ヘジォナウ バイアーナ)が作られることで、カポエィラは形を変えて一般のブラジル人(富裕層、白人社会)に伝わります。現在のカポエィラヘジォナウのスタイルの起源です。1937年にようやくカポエィラが禁止ではなくなり、やがてブラジルの文化的民族舞踊として知られ、スポーツ、格闘技として訓練されるものへと変化を遂げて行きます。定型化されたカポエィラは、白人層、富裕層にも理解され、より大勢に練習されるものとして広まります。大都市のサンパウロやリオデジャネイロでも50〜70年代に広まります。その時代のなかで形を変え、広まっていくカポエィラと区別するべく、それ以前のカポエィラ、特にバイーアで行われていたカポエィラをアンゴーラと呼びました。歴史上、数多く残る素晴らしいカポエィリスタはいますが、そのカポエィラアンゴーラを守る運動を代表したアイコニックな人物としてメストレパスチーニャがいます。彼はいまなおカポエィラアンゴーラの父として、その哲学、思想、あり方を説いた人物として知られ、教えが受け継がれています。私たちのグループインジンガは、メストレパスチーニャの教えを継承する「パスチーニャ系のカポエィラアンゴーラのグループ」として活動を続けています。この他にもカポエィラアンゴーラの系列や師範が存在し、それぞれ弟子へと受け継がれています。

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映画ダンサ ジ ゲーハの撮影:ジャイール・モウラ(1968年)

/ Filme: Dança de Guerra / Jair Moura

Jogo de João Pequeno e João Grande. Mestre Noronha e Maré cantam.

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