カポエィラとは?

 

 カポエィラ(カポエラ、カポエイラ)とは16〜19世期の間にアフリカよりブラジルに奴隷として連れて来られた人々が生み出した伝統芸能です。

円(ホーダ)になって、民族楽器で奏でる音楽と歌、そして円の中心で行われる二人の踊り手がコミュニケーションを取りながら、遊び・掛け合いをして楽しみます。老若男女、あらゆる人種やジェンダーを問わず、すべての人が一緒に行えることを目指すものです。

カポエィラのホーダはユネスコによってブラジルの無形文化財に登録されるなど、世界的に価値を見出され、ブラジル国内外、世界各国で様々な人に練習され、親しまれています。 

 カポエィラは、踊り、闘い、格闘技、民族楽器が弾かれ、歌も歌われるもの。それらすべてが複合的に合わさったものです。先生から、もしくはグループで学び、日々の練習の積み重ねや経験をしていくことで、少しずつ理解をしていきます。音楽に合わせて基本のリズムとステップを踏み、​相手と動きを合わせて行います。それは自分自身との対話でもあり、身体表現を通した自由の獲得でもあります。​歴史と伝統を学ぶことで養える、抵抗としての文化芸術表現でもあります。

昔のホーダの様子

現代のホーダの様子

カポエィラは、大きく分けて3つの流派に分けられます。

これに当てはまらず、カポエィラという名称のみを使用したり、その他の流派も存在します。

また、同じ流派でも、先生やグループの違いによって、教えにも差異があります。

カポエィラ・アンゴーラ

1940年代に形作られ、昔のカポエィラ、アフリカ性、起源、伝統、口承文化に重点をおき、特に非暴力性を説く流派。音楽性や儀礼性の伝承に力を入れる。低い姿勢で、よりゆっくりとした動きが多く、土着的な踊りのように見える。主楽器ビリンバウを3本、パンテイロ2枚、アゴゴ、ヘコヘコ、アタバキを演奏し、リズム・テンポもよりゆっくり。ユニフォームには帯を使用しない。

一度はなくなりかけたものの、1980年代よりムーブメントが起きて復活する。

カポエィラ・ヘジォナウ

1930年代にメストレ・ビンバによって形作られ、その当時のカポエィラに格闘技的な技や型が導入された流派。ビリンバウは1本、パンデイロは2枚使用して演奏する。ユニフォームには帯が使用され、昇段式、などのシステムが導入される。テンポも早く、より攻防を特徴とした流派。

カポエィラ・コンテンポラーニャ

現代(コンテンポラリー)という言葉を用いられた呼び名。動き、楽器、音楽性など、上記のアンゴーラとヘジォナウ流派いずれも混ざり、進化した流派。よりアクロバット性が強く、スポーツとしても考えられる。

カポエィラ・アンゴーラとは?

 

 「アンゴーラ(アンゴラ)」はいくつかあるカポエィラ流派のなかで、昔のカポエィラを継承しようとする一種の流派です。昔から行われていたカポエィラが時代の流れとともに大きく変化し始めたときに、1940年代にメストレ パスチーニャによって「カポエィラ・アンゴーラ」として形作られました。以降、アフロブラジル文化を形成するひとつの貴重な文化として途絶えることがないよう、師範から弟子へと口承文化によって教えが受け継がれていきました。

 メストレ パスチーニャの伝えるカポエィラ・アンゴーラの大きな特徴は、音楽性や動きだけでなく、思想といえます。​カポエィラを人生そのものとして唱え、言葉や文章、絵にして残し、後世に伝えることができた人物でした。そこには、過去からの叡智、非暴力性、危険回避、思いやりや愛までもを比喩的に表現できる偉大な教えとして現在まで受け継がれます。

 私たちがメストレ パスチーニャの教えで特に大切にすることは、精神性と祖先性といえるでしょう。口承文化であるカポエィラを学ぶ上で、欠かせないのは教えてもらう人(師範)との時間。その中で、カポエィラの教え、感覚が伝えられていくのです。そして、カポエィラ・アンゴーラに欠かせないその他の要素は、コミュニティー性、相手への尊敬の心です。これらの要素は時間をかけて練習していく中で、自己への理解と成長、変化へと繋がります。私たちの行うホーダ(演舞・儀礼)では、これらの要素を大事にし、参加をするすべての人々が不可欠かつユニークな存在であることを認め合い、喜びをもって表現しています。

メストレ パスチーニャ

 

​メストレ パスチーニャ / Mestre Pastinha(1889年4月5日〜1981年11月13日)

メストレ パスチーニャはカポエィラ・アンゴーラを形成した人物の中でもっともアイコニックな人物として知られる師範です。

1889年4月5日、ヴィセンチ・フェヘイラ・パスチーニャ(Vicente Ferreira Pastinha)は父はスペインの商人ジョゼ・パスチーニャ(José Pastinha)と母はアフリカ系黒人のハイムンダ・ドス・サントス(Raimunda dos Santos)の息子として生まれました。奴隷制度の廃止(1888年)後のブラジル、バイーア州のサルバドール市の貧困な街で、他の同じような状況の大多数の子供たちとともに、学校教育をまともに受けることができずに彼は育ちます。12歳から20歳まで海軍に入隊し、カポエィラ・アンゴーラの師範の他には、絵描き、ミュージシャン、大工、靴磨き、新聞配達といった職業に就きました。

 

彼が幼い頃、学校にいく数少ない機会のなか、いつもの通学途中にオンラート(Honorato)という少年が、度々暴力を振るってきました。その状況を眺めていた元奴隷の年寄りのアフリカ人ベネジート(Benedito)は幼いパスチーニャに呼びかけ、最初のカポエィラの教えを行うことにしました。

「自分より体の大きい者には勝てない、お前にカポエィラを教えてやろう。」

そうしてパスチーニャはカポエィラを教え込まれ、後にいじめっ子に立ち向かい、やっつけたという有名な話が残されています。

 

カポエィラが未だに抑圧され、後々にはカポエィラ・ヘジォナウ流派の存在によって進化していくカポエィラですが、パスチーニャはその時代に残っていた老師の代表的な存在として、カポエィラ・アンゴーラを形作り、それを後世に残しました。 彼の行ったとても大事な業績は、時代と社会にある暴力性をカポエィラから引き離し、それを言葉や動き方、思想や哲学としてカポエィラ・アンゴーラの基本的な要素として残したことです。 その時代に弟子を育て、書物や絵、音楽として後世に残しました。

メストレ パスチーニャの直弟子で最も有名な二人がいます。

メストレ ジョアォン・ペケーノ(Mestre João Pequeno : 1917年12月27日 – 2011年12月9日)、メストレ ジョアォン・グランジ(Mestre João Grande : 1933年1月15日)(現在米国ニューヨーク在住)です。

私たちのグループ インジンガのメストレたちは、GCAPの元でメストレ モライス、メストレ コブラマンサ、そしてメストレ ジョアオン・グランジの三師範からカポエィラ・アンゴーラを学びました。現在もその代表的な教え、思想、哲学としてメストレ パスチーニャの系列と伝統を守り、継承をしています。

 

1941年にサルバドール市の地区、ペロリーニョに最初のカポエィラ・アンゴーラの学校(Centro Esportivo de Capoeira Angola:CECA)を設立。当時応援していた現地のサッカーチーム:イピランガ(Ypiranga)のチームカラー、黒と黄色をカポエィラ・アンゴーラのユニフォームの色にしたのは有名な話。学校は価値のある文化として評価され、当時の詩人や音楽家や芸術家(ジョルジ・アマード、マリオ・クラーヴォ、カリベ)などがよく足を運んだ。カエターノ・ヴェローゾによる1972年のアルバム:Transaの中でも彼のことが歌われている。

 

1965年、本「カポエィラ・アンゴーラ」を出版し、その中ではスポーツマンシップのある自然体な在り方を推奨し、非暴力的な性質を擁護しました。彼は、カポエィラを非暴力であり、一種の芸術へと変化させることができた。

1966年、セネガルで開催された第一回世界黒人芸術祭にブラジル代表団として渡航し、当時のイベントのハイライトとして取り上げられる。

1973年、彼の学校CECAのある建物を市に回収され、その後は残念ながら活動を再開することはなかった。
1981年、盲目となったパスチーニャは妻に介護されながら貧困の中で息を引き取った。

メストレ パスチーニャの言葉

"Angola, capoeira, mãe"

「アンゴーラ、カポエィラ、母。」

"Mandinga de escravo em ânsia de liberdade, seu princípio não tem método e seu fim é inconcebível ao mais sábio capoeirista." 

「自由を渇望する奴隷のマンジンガ。その始まりは方法がなく、その終わりは最も賢明なカポエィリスタにでさえ考えることができない」

"Capoeira é tudo que a boca come"

​「口にするすべてがカポエィラである」

 "O berimbau é a alma da capoeira"

「ビリンバウはカポエィラの魂である」

"Ninguém joga igual a mim, cada um joga do seu jeito".

「誰も私と同じようなジョゴをしない(動きをしない)、各々がそれぞれの方法でジョゴをするのだ(動くのだ)」

"...capoeira é muito mais que uma luta, capoeira é ritmo, é música, é malandragem, é poesia, é um jogo, é religião..."

「カポエィラは闘い以上のものである。カポエィラはリズム、音楽、マランドラージェン、詩、ジョゴ、宗教である」

"Capoeirista não é aquele que sabe movimentar o corpo, e sim aquele que se deixa movimentar pela alma"

「カポエィリスタとは身体を動かすことを知っている者ではなく、魂によって動かされる者である」

"Capoeira só é a Capoeira quando não se rótula..."
「カポエィラとは、型にはまらない時のみカポエィラとなりえる」

"Quando dois camaradas estão se exibindo na roda, é uma demonstração, sem rivalidade, pois
o público não quer ver sangue, e sim evoluções; o capoeira deve ser calmo, tranquilo e calculista"

「二人の仲間がホーダの中で互いに表現し合うとき、それは実演である。ライバルの関係ではなく、聴衆は決して血しぶきを見たいわけでもなく、進化する様を見たいのである。カポエィラとは穏やかで、落ち着いていて、計算されている必要があります」


"Preciso ter calma no jogo, ou seja, quando mais calma melhor para o capoeirista"

「ジョゴには穏やかさが必要である。より落ち着いている方が、より良いカポエィリスタだ」

カポエィラ・アンゴーラの歴史

 

 カポエィラにはいたるところに歴史が存在します。ポルトガル人によるアフリカからブラジルへの奴隷貿易を切り離すことができません。世界の砂糖生産に合わせ、ブラジルを領土として新しい国づくりと生産力が求められました。16〜19世紀後半まで奴隷として連れてこられた推測で1000万人ものアフリカの人々は、過酷な労働と、残酷な人生を強いられます。

平均寿命の短かった奴隷とされたアフリカ人は、使い捨てのように次から次へと新しい土地へと運ばれて、使われました。何世紀にも渡りアフリカの影響を色濃く受け継ぐブラジルの文化と国民性はその歴史からきます。ブラジルの新しい土地で様々な部族との混ざり合いによりそれが形を変え、奴隷制、植民地支配からの自由を勝ち取る術としてカポエィラの魂は受け継がれていくのです。

闘う黒人たち(1820-24年) / Negros lutando, Brasis: Augustus Earle

カポエィラのホーダ(1835年) / Roda de Capoeira: Johann Moritz Rugendas

 1888年、ブラジルでは奴隷制が廃止されますが、1890年よりカポエィラは法律により禁止され、公の場で行うことは許されませんでした。それは、アフリカ系黒人の行う全ての踊り、音楽、宗教を禁ずるものでした。ようやく1930年代になり、メストレ ビンバによってバイーア地域の格闘技(ルタ ヘジォナウ バイアーナ)が作られることで、カポエィラは形を変えて一般のブラジル人(富裕層、白人社会)に伝わります。現在のカポエィラヘジォナウのスタイルの起源です。やがてブラジルの文化的民族舞踊として知られるようになり、スポーツ、格闘技として訓練されるものへと変化を遂げて行きます。定型化されたカポエィラは、白人層、富裕層にも理解され、より大勢に練習されるものとして広まります。大都市のサンパウロやリオデジャネイロでも50〜70年代に広まります。その時代のなかで形を変え、広まっていくカポエィラと区別するべく、それ以前のカポエィラ、特にバイーアで行われていたカポエィラをアンゴーラと呼びました。歴史上、数多く残る素晴らしいカポエィリスタはいますが、そのカポエィラアンゴーラを守る運動を代表したアイコニックな人物としてメストレパスチーニャがいます。彼はいまなおカポエィラアンゴーラの父として、その哲学、思想、あり方を説いた人物として知られ、教えが受け継がれています。私たちのグループインジンガは、メストレパスチーニャの教えを継承する「パスチーニャ系のカポエィラアンゴーラのグループ」として活動を続けています。この他にもカポエィラアンゴーラの系列や師範が存在し、それぞれ弟子へと受け継がれています。

映画ダンサ ジ ゲーハの撮影:ジャイール・モウラ(1968年)

/ Filme: Dança de Guerra / Jair Moura

Jogo de João Pequeno e João Grande. Mestre Noronha e Maré cantam.

 1980年代、すでにカポエィラ・ヘジォナウの影響を主流としてカポエィラが行われるなか、年老いた師範、カポエィラ使いや知識人たちの価値が一般的に薄れていきました。そのなか、メストレ モライスによってグループGCAP(Grupo de Capoeria Angola Pelourinho)が設立され、カポエィラ・アンゴーラの価値観が見直される運動、アフリカ性アイデンティティの強調性を求める運動がおきます。メストレ パスチーニャの直系の弟子の二人、メストレ ジョアォン・グランジとメストレ ジョアォン・ペケーノのうち、GCAPは当時道場を持たなかったメストレ ジョアォン・グランジを呼び戻し、一緒に活動をするメストレ コブラマンサと共に、古いメストレ達に再度活躍の場と価値を与え、伝承の場を設けました。

 1980年〜1995年あたりがGCAPによるバイーア州サルバドール市のカポエィラ・アンゴーラの黄金時代といえるでしょう。そのなかで、初期メンバーとして学び活動する当グループの師範達、メストラ ジャンジャ、メストラ パウリーニャ、メストレ ポロッカです。後にこの3師範により1995年にグループ インジンガ(Grupo Nzinga de Capoeira Angola)がサンパウロで設立されます。

 1990年代にはヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国の大都市でカポエィラが伝えられて広まるなか、メストレ コブラマンサを主軸に国際カポエィラ・アンゴーラ連盟と称されるグループ FICA(Fundação Iternacional de Capoeira Angola)が設立され、世界中にカポエィラ・アンゴーラを広める大きな役割を担います。

 

 日本ではおよそ1990年代後半、2000年初頭よりカポエィラ・アンゴーラが練習され始め、指導者やグループが形成され始め、現在に至ります。今日では、数々のグループとその指導者が存在し、活動を続けています。近年ではブラジルを始め、他国からメストレ達が招聘され来日することは珍しくなく、そのほとんどのイベントは個人的もしくはグループの資金によって開催され、普及活動や学びの場が設けられています。​

カポエィラ・アンゴーラの音楽性

 

カポエィラの特徴のなかで際立つのがその音楽性です。

​こちらではカポエィラ・アンゴーラで使用される楽器の紹介をします。

【ビリンバウ】

アフリカ由来の弓状の楽器。木の棒に針金を張って弦にし、くり抜いたひょうたんをつけて共鳴させる。針金を棒で叩くことによってリズムを作りあげる。ブラジルの北東部に多くみられるカポエィラの中心的な楽器。カポエィラと同様、アフリカより奴隷として連れて来られた人々が伝えた楽器として知られる。弦の張り加減とひょうたんの大きさによって音階を調整し、3本に分けられる。それぞれの種類をグンガ、メジオ、ヴィオラと呼ぶ。

いつからカポエィラの中で使われ始めたのかは不確かであり、1930年(19世期終わり〜20世紀初頭)頃にカポエィラに持ち込まれたとされる。

【パンデイロ】

輪っかの形を木で作り、皮が張られる。皮を叩くことで、低音や高音を使い分けリズムを作る。

リムにはジルと呼ばれる円形の金具がついていて、カチャカチャという音を出す。サンバでもよく使われる、タンバリンに似た楽器。

【アゴゴ】

高音が特徴の、カウベルのような鉄製の楽器。二つの鉄製の部分を交互に叩くことでリズムキープをする。アフロブラジル宗教カンドンブレにも使われる。

【ヘコヘコ】

ギロのような楽器で、切れ目の入った竹を、小さな棒でギコギコと擦ることでリズムを作る。

【アタバキ】

背が高く、長細い木製の太鼓。コンゴに似た太鼓。牛の皮を使うことが多い。アゴゴ同様、カンドンブレの祭事の中心に使われるとても神聖な太鼓。形と大きさによって音階が変わり、低音から高音までを出すことができる。カンドンブレでは三台同時に演奏することにより、豊富なリズムを作り上げ、神々との交信に使われる。

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